与那国語メモ:「てしまった」のminun
動詞中止形に続くminunは、存在の否定という意味を離れ、「起こった行為に対する話し手の期待はずれ」を表すという。それなら標準語の感覚に近いだろう。
子供の壁の落書きを見て、
kati minun suyaa.
書いてしまった(様子だ)なぁ。
書いちゃったなぁ。
*ところで終助詞suyaはどういう文脈で何を表すのだろうか。
ただ、これは完了の否定にも使うから、標準語で「てしまった」が専ら期待はずれを表すようになってるのとは印象が違う。
kica turas-ya-n.
さっきあげた(完了)
madi turas-i minun.
まだあげてない。
あげるという行いが存在しないことを示す。完了形が動作の存在を表す(多分)ことに対する対概念か。
当然「あげてない」は「あげていない」とは異なる。「あげていない」は現在進行の否定である。
turas-i bur-anu-n.
あげていない。
今まさにあげているところではない。
これは動詞bunの単純否定。